№11:神田城(和歌山県西牟婁郡すさみ町)

イメージ 1
神田城縄張図
 
 神田城は、紀伊半島南部の和歌山県西牟婁(にしむろ)郡すさみ町神田に所在し、北は温泉で有名な白浜町と、南は潮岬のある串本町とに挟まれる位置にある。
 
 初訪城の日時は記録していないので分からないが、筆者が大学の春休みで実家に帰省中だったので、1980年代前半だったのは間違いなく、まだ少し寒い季節だったので、2月か3月頃だろうか?筆者の実家はJR紀勢線「日置(ひき)」駅が最寄り駅で、そこから一駅ほど南下した「すさみ」駅から、徒歩にて2・30分程度で登り口に到着する。
 
 当時持参した先行図には、まだ畝状竪堀群は表記されていなかったが、それでも土塁囲みの曲輪や堀切を見学して、それなりに満足して帰った記憶がある。
 
 今でこそ畝状竪堀群(畝状空堀群、連続竪堀群などとも呼ぶ)は良く知られた防御施設だが、この種の遺構を最初に報告されたのは新潟県在住の伊藤正一氏で、当初は「畝形粗障」と呼んだ(伊藤正一1980「戦国期山城跡の畝形施設について」『日本城郭大系』7、新人物往来社)。
 
 その後、中国地方や北部九州でも発見されたことから、日本海ルートで西日本に伝播したのでは?と考えられた時期もあった。しかしさらに踏査が進むと、ほぼ全国的に存在する防御施設であることが分かってきた。ただ南紀では、畝状竪堀群を持つ城郭は少ない地域であると言える。
 
イメージ 3
写真1:畝状竪堀群
 
 初訪城から月日が流れ、2011(平成23)年のお正月休みで帰省したおり、郷里の同級生でもある城友の車で誘われ、同城を再訪城して縄張り図作成を行った。その頃には既に水島大二氏による縄張り図が世に出ていて、同城の畝状竪堀群の存在も既に知られるところとなっていた(水島大二1987「神田城」『図説 中世城郭事典』3、新人物往来社)。
 
 城跡は、標高80m(比高70m)の半島状丘陵上に占地する。しかし平地側から見上げると、尾根筋の部分が死角になって見えにくいので、一見すると独立丘陵のように見えてしまう。
 
 同城は「神田家略系」によると、下野国(現在の栃木県)の宇都宮城主であった直則を祖とする宇都宮道直が、1569(永禄12)年に築城したと伝えられる(水島大二1980「神田城」『日本城郭体大系』10、新人物往来社)。しかしなぜ下野国から当地に移り住んだのかなど、史料の信ぴょう性も含めて不明な部分が多い。
 
 縄張りは、最高所にⅠ郭(主郭)を設けて背後を土塁Aで遮断するが、上面は幅広なので櫓台を兼ねていたのかもしれない。Ⅱ郭とを隔てる北側は土塁を設ける。その直下にⅡ郭を設け、東側から北側にかけて土塁を巡らし、土塁の内面と西側の切岸は石積となる。曲輪の南西隅には、石組の枡らしき遺構も見られる。
 
 Ⅰ郭の土塁を挟んで、背後の尾根筋に5条、前面に3条の堀切を掘削し、そしてⅠ郭の西斜面には9状の竪堀を落とす。尾根筋の連続堀切りと合わせると、事実上12条にも数えられる。またⅡ郭の西斜面には、堀切から変化する横堀を巡らす。この横堀の内法にも石積を施し、堀底には1か所仕切りの障壁を設ける。
 
 図面の等高線だけでは分かりにくいが、東斜面は人の直登が不可能なほどの急崖のため、あえてここには防御施設を築く必要がなかったのであろう。このように尾根を連続堀切、斜面を畝状竪堀群と横堀で囲郭して、人馬が一切近寄ることのできない構造になっている。
 
イメージ 2
写真2:横堀内の石積
 
 さて当城で興味深いのは、Ⅰ郭の西斜面は畝状竪堀群で守り、Ⅱ郭は横堀で守っている点である。通常、畝状竪堀群は単独で使用するか、横堀から落とす形で組み合わせて使用すのが常套手段である。
 
 一般的に畝状竪堀群が古くて、横堀が新しい技術とされ、畝状竪堀群の盛行期が1541~70(天文10~永禄期)年で、横堀の出現が1576(天正4)年以降とする説もある(千田嘉博2000『織豊系城郭の形成』東京大学出版会)。しかし当城では、竪堀群と横堀とを別々に使い分けているのが特徴で、全国的にもちょっと珍しい構造である。
 
 なおⅠ郭にて、備前焼の甕や擂鉢等の破片数点が表面採集されている。このうち甕の年代観は、概ね15世紀後半~16世紀初頭である(乗岡実ほか2004「中世陶器の物流―備前焼を中心にして―」『日本考古学協会 2004年度大会研究発表資料集』日本考古学協会2004年度広島大会実行委員会)。
 
 この備前焼片は実測後に紙上にて発表のうえ、(公財)和歌山文化財センターに寄贈済みである(拙稿2012「紀南の中世城郭にて表面採集の備前焼―佐部城と神田城の資料から―」『和歌山城郭研究』11、和歌山城郭調査研究会)。
(文・図・写真:堀口健弐)